PROFILE
INTERVIEW
対談
2025.09.11対談

共栄木材を営む西下家に生まれた兄弟。家業を継いだ長男と、建築家になり長男の自邸を設計した三男が、建築空間に木がもたらす価値などについて語り合います。
生まれたときから、すぐそばに木があった
お二人は、兄弟としてどのような幼少期を過ごされたのですか。
文平
私は材木屋の長男として生まれました。家には父はもちろん、祖父もいて、はっきり言われなくとも「お前が四代目だぞ」という空気感は常にありましたね。
しかも家が工場の真横にあって、ほとんど工場の中にいるような感覚なんです。物心ついたときから、木の匂いや加工する音が日常でした。社員の人たちも近所の知った顔ばかりで、よく面倒を見てもらっていました。泊まりがけで現場に連れて行ってもらったこともあります。まさに、地方の材木屋の町工場で育った子ども時代でした。
太一
三男の私も兄と同じ環境で育ったので、基本的に思い出は重なりますね。父の配達に同行したり、現場で釘拾いをしたり、板干しを手伝ったり。
ただ、私は末っ子のせいか社員の皆さんにすごく可愛がられまして、よく飴をもらった記憶があります。「この子は跡取りじゃないから」という気楽さもあったんじゃないでしょうか。

その後、太一さんはなぜ建築の道へ?
太一
高校2年のときに父が、TOTO出版の『ルイス・カーンの全住宅』という本を買ってきて、ポンと僕に手渡したんです。青い表紙の分厚い本でした。そこに載っている作品を見て「建築ってめちゃくちゃカッコいいな」と感じ、「建築家という職業があるんだ」と初めて知りました。それが最初の大きなきっかけで、大学選びの中で工学部建築学科が候補に入るようになりました。
そして、ちょうどその頃、父が芸大で教えておられる建築家の方と一緒に仕事をする機会があったようで、「建築学科は工学部だけでなく、美術学部にもある。海外では美術寄りの分野として建築を学ぶことも多いらしい」と聞きました。当時の私は「みんなと同じ進路を選ぶのは面白くない」と感じていたので、自分には芸大が合うと考えて東京藝大を志望しました。
文平
私は地元の公立高校から京都の大学に進学しました。太一は芸大に行き、もう一人の次男はアメリカの大学に進み、今はバンクーバーで木材商社を経営しています。弟たちが我が道をゆく中、私は極めてノーマルな進路でした(笑)。長男として家業を継ぐものだと自然に思っていましたし。
実際に、「必ずお前が継げ」と言われたことはないんですよ。でも田舎では、特に長男の場合、親が漁師なら自分も漁師になる、農家なら農業をやる、そういう自然な流れがやっぱりあるんですよね。時代ですかね。
すべてが今につながっている「稲荷の家」
太一さんは東京に出られた後、地元へ戻られて、今はお二人とも愛媛ですね。やはり地域への思いが?
文平
私が瀬戸内の海の美しさや、自然の豊かさに気づいたのは大人になってからです。下灘を出て、外の世界を見て初めて「目の前に海が180°広がる、あの景色は特別だったんだ」と。子どもの頃は当たり前と思っていましたが、いま振り返ると、そうした原風景そのものが大きな財産になっていると感じます。
太一
東京の大学を出た私は、そのまま東京で3年働いたのですが、最初から「いずれは地元に戻る」と思っていました。特別な理由はなく、自然にそのつもりでいたんです。
とはいえ、愛媛に戻った最初の頃は、地域のことを考える余裕がなかったですね。戻ってきたタイミングで自分の事務所をひらき、建築家として独立したので、まずはこちらで仕事を取ることに必死でした。
木という素材についても、幼少期から当たり前にそばにあったので、逆に深く考えていませんでした。独立してから人に伝える必要が生まれ、言語化する機会が増える中で、後から理解が追いついてきた感じです。
なるほど。そうやって木と向き合いながら太一さんが、文平社長の自邸「稲荷の家」を設計された経緯について教えてください。
文平
ちょうど、子どもが小学校に入るタイミングで家を建てようと思ったんです。太一がこちらに戻ってきて半年から1年ぐらい経った頃でしょうか。先に私のほうで土地を探し、土地が決まった2016年初めから太一の設計がスタート。設計については基本的にお任せで、竣工は2017年です。
太一
私としては兄の家だからこそ、多少の実験も許されるだろうという思いがありました。うまくいけば、会社にとっての実物見本的な役割を果たすんじゃないか…とも。
文平
そうそう。私も仮にうまくいかなかったとしても、建材や樹種の新しい可能性が広がったり、商品化につながったりすればいい、そんな思いでしたね。太一に好きにやってもらう一方で、私は材木屋として設計とコラボしていくような感覚もありました。

木材の使い方では、具体的にどんなチャレンジをされましたか。
太一
素材については、「いま何があるか」からスタートしました。工場にあるもの、余っているもの、ミスで残ったもの…。わがままを言わず、コントロールしようとせずに、そこにあるものを使う。ビートルズ風に言うならLet it be。デザインありきで材を当てはめていくのではなく、与件からどうデザインするかを考えました。だからこそ、いい意味で肩の力が抜けて、材木屋との相乗効果が生まれたんじゃないかと。
文平
たとえば近所の人から季節の野菜をいただいたら、いかにおいしく調理するかを考えると思うんです。家づくりもそうで、手元にある素材を使えば結果的にコストも抑えられ、ものを大事にすることにもつながる。原理主義的に「この木材はこうあるべき」と決めすぎない、そんな柔らかさが面白いんですよね。
太一
具体的に稲荷の家では、イペやセランガンバツなどの南洋材を組み合わせて板塀にしたり、挽き間違えて不良在庫になっていた原板を挽き直して天井材にしたり…といった工夫を重ねました。
今では共栄木材の定番商品になっている『ランビックルーバー』も、稲荷の家での試みがきっかけで商品化へと発展したものです。設計事務所を始めてもうすぐ10年になりますが、結局、稲荷の家で考えたことが全部、今につながっているなと感じます。

「共年美化」は心のありようも指す言葉
「稲荷の家」が竣工して8年。共栄木材が提唱している「共年美化」についてはいかがでしょう。
文平
自分では相当、いい感じだと思っていますよ。自邸なので、「美化」って言うとちょっと気恥ずかしいですけど。
8年経てば、子どもが小学生から中学生になったり、いろんな変化がありますよね。そういった変化を「この家と共に過ごしている」と実感していますし、暮らすほどに愛着が湧いてきています。家に帰ってきたときや寛いでいるときにも、ふと、自然のまま経年している我が家を見て素直に「いいな。」と思うんです。家族の思い出や愛着を含めた、美しさだと思います。
思っていた通りの感じになった?
太一
うーん、「思った通りの経年変化」って、多分ないんじゃないかな。長い時間が経つ中では、想定しきれなかった変化も往々にして起こるわけで。
なので最初から、飴色にしよう、シルバーにしようなどと狙わずに、自然な変化を「いいな」と受け止める、その心のありよう自体が美しいのではないかと思います。
文平
今、ひとつ思い出したのが我が家の外壁のエピソードです。外壁は米ヒバをラフソーン仕上(製材挽きの状態での仕上)で使ったんですが、左官職人さんが「雨の滴りがつくる線がいい」と言ってくれて。これも、雨ジミと言ってしまえばそれまでなんですが、自然が描く線が非常に美しいと。私も本当にそうだなと思いましたし、そのような捉え方は今も自分の中にあります。
思い通りにならない事や偶然を素直に受け入れる気持ちというか。下灘の田舎で育ち、農業や漁業に従事している人がたくさん周りにいた環境が影響している気がしますね。

建築の価値を決めるものとは何か
太一さんは、ひとりの建築家として共栄木材をどう評価されていますか。
太一
つねづね感じているのは、「売るだけの会社」と「作れる会社」は違うということです。
共栄木材は機械や現場をよく知っているので「この仕様はこうです」と説明するだけでなく、「こう加工すれば可能かもしれない」と、一歩踏み込んで提案してくれるのが一番の強みだと思いますね。材木屋と話しているというよりは、大工さんや左官屋さんと話しているような感覚に近いです。
文平
うれしいですね。共栄木材はWebサイトにも「販売業ではなく製造業」と掲げ、これを強みとしています。愛媛県というスギ・ヒノキの産地に根ざしていることはもちろん、世界の木材の集積地であるバンクーバーで、次男のグループ会社が築いたネットワーク。これらを活かし、原木や端材の流通まで含めて商流を設計しながら、「ここにしかない」新しい価値を生み出す会社です。
また共栄木材は、人と人の距離や会社としてのスケールが「大企業ほど遠くはなく、個人事業ほど小さくもない」。この「ちょうどいい規模感」も強みです。信用や与信を確保しつつ、顔の見える関係で仕事ができることも、ひとつの大きな価値になっていると思います。
若手の建築家の方にも、ぜひ知っていただきたいですね。
太一
建築をやっていて「作る人の顔が思い浮かぶ」というのは、すごくいいことだと思うんですよ。たとえば共栄木材で、工場で大汗をかきながら焼杉を焼いている人、加工機を動かしている人…。そういう人の姿を見てから自分の図面に戻ると、設計の手ざわりがまったく違って感じられるんです。現場でも、図面から凄まじいリアリティを持って建ち上がってくる。それはもう言葉にならないほどの楽しみ、喜び、生きがいです。
文平
だから、ぜひ多くの人に共栄木材に来て体感してもらいたいですね。ふらっと素材を見に来て、触れて、話して、そこから一緒に作っていく。そういう大らかさを持った会社でありたいと思っています。

ありがとうございます。最後に、今後の展望をお聞かせください。
太一
建築の価値は、最終的には「どういう価値観で見るか」で決まります。技術はもちろん必要なのですが、さらに大切なのは作る側・使う側、双方の考え方であり価値観ではないでしょうか。
建築は「時間を帯びる」ものなので、その価値観が深いところで共鳴しなければ、時代性に流されたり色褪せたりします。だからこそ、暮らしや空間についての考え方や価値観を育て、社会に広めることが、もっとも本質的な満足につながる。それができる建築家でありたいと思っています。
文平
1948年創業の共栄木材は2048年に100周年を迎えます。そのとき自分は64歳、社長は5代目に変わっているかもしれません。
私たちの商材である木は、年輪を刻みながらゆっくりと成長していきます。急成長して一気に大きくなった木材は、美的にも強度的にも評価されにくい。その一方で、長年かけて目の詰まった木材は美しく、強いとされています。
会社も同じで、ゆっくりと確実に年輪を重ねていくような存在になりたい。そして「ここにしかないもの」を提供することはもちろん、「共年美化」といった言葉、価値観も含めて発信していけるような存在になりたいですね。
